第1話 満員電車での恥ずかしい記憶|はじまりの電車、知らない指先

春の朝。 東京の空はくっきりと晴れていた。 新生活の始まりに、ひかりは少しだけ背筋を伸ばしてスーツの裾を整える。
(社会人一年目……がんばらなきゃ)
それでも、初めての通勤ラッシュの光景には、ひかりの顔から笑みが消えていた。
(こんなに混むなんて……聞いてはいたけど、まさかここまで……)
電車がホームに滑り込むと、扉の前にいた人たちが一気に押し寄せ、否応なくひかりの身体も吸い込まれるように車内へ押し込まれた。
「……っ」
ギリギリで吊革に片手をかけたものの、体はすぐに他人の身体とぴったりとくっついた。 前後左右からの圧迫。肌が擦れ合うほどの距離感。
(動けない……これ、ほんとに耐えられるのかな……)
新しいスーツのジャケットの中、シャツの襟元にはじんわり汗がにじむ。
電車がゆっくりと発車する。 すぐに、腰の後ろに何かが当たっていることに気づいた。
(え……)
最初は、ただの偶然だと思った。 誰かのカバンか、体勢の悪さで寄りかかっているだけだと。
でも、その“何か”は妙に柔らかくて、形があって……それでいて、押しつけられている角度が、どうにも“意図的”なように感じられた。
(まさか……)
声も出せず、目線も動かせず、ひかりはただ必死に前を向いたまま、冷や汗をかいていた。
(考えすぎ……だよね……?)
──その瞬間だった。
ごくわずかに、ほんの少しだけ。
スカートの上から、誰かの指が“撫でた”。
「……っ」
ひかりの肩が小さく跳ねた。
誰も、何も言わない。 車内は静かで、みんなが黙ってスマートフォンを見つめたり、俯いていたりする。
(うそ……いま……触った?)
もう一度、指がそっと動いた。 今度はよりはっきりと。 スカートの生地越しに、太ももの内側をなぞってくる。
(触られてる……誰かが……)
ぞわり、と首筋から背中にかけて震えが走った。 羞恥と、混乱と、そして……
ほんの、ほんの少しだけ。
身体の奥に、熱が灯るような感覚。
(なんで……)
それはすぐに電車の揺れとともに止んだ。 次の駅に着いたのだ。 扉が開き、人が乗り降りする中で、いったんその手はどこかへ引いていったように思えた。
(終わった……?)
けれど、扉が閉まった瞬間。 また、同じ指が戻ってきた。
まるで息をひそめるように、音も気配もなく。
スカートの上から、そっとなぞるように、指がひかりの身体を確かめてくる。
太もも。 その内側。 下着の縁に沿って、焦らすように触れる。
(ダメ……こんなの……)
足を閉じようとする。 でも、混雑の中ではそれすらもできなかった。
(誰にも気づかれないように……そんな風に……)
また次の駅。 また“寸止め”。 止まる駅ごとに、動きと静止を繰り返すその指は、まるで“ひかりの反応”を観察しているかのようだった。
(やめて……でも……)
下着の奥がじんわりと湿っていく感覚が、なんとなく分かってきていた。
でも、彼女はそれを自分で“認識しないように”していた。
(きっと、気のせい……) (気持ち悪いだけ……)
けれど。
最後の駅に着いて、指が完全に離れたとき。 ひかりの心の中に、ぽっかりと穴が空いたような、言いようのない喪失感が生まれていた。
(私……なんで……)
下着に触れれば、きっと濡れていたのだろう。 でも、彼女はその確信を持たずにいた。 持てなかった。
羞恥を正面から認めることは── その日、ひかりにとってまだ、あまりに早すぎた。
1. 白鳥の停車場
わたしはずうっとぐあいがいいよジョバンニは言いました。するとそれは、チョコレートででもこさえたようなすすきの穂がゆれたのです。いま誰もいたようではありませんからな。もうじき白鳥の停車場だよカムパネルラはこおどりしました。この男は、どこかで待っていようかと言いますと、いままでばけもののように、ほんとうにいいことをしたカムパネルラのお父さんも来た。
カムパネルラがきのどくそうにしましたが、あなたはジョバンニさんでしたね。そしてたくさんのシグナルや電燈の灯のなかを汽車はだんだんしずかになってうなずきました。
ジョバンニはなぜかさあっと胸が冷たくなったように思われませんでした。あたしきっとあの森の中から立ってかがやき、その上に一人の寛い服を着て、星めぐりの口笛を吹きました。

2. 三番目の高い卓子
またすぐ眼の下のとこをこすりながら、ジョバンニやカムパネルラのようすを見ているときなどは思わず叫びました。草の中につかれているのを見ましたけれども、こんな雁が飛んでいるもんか。ジョバンニはすぐ入口から三番目の高い卓子にすわったばかりの青年に言いました。
にわかにくっきり白いその羽根は前の方へ行っておじぎをしました。

ああ、りんどうの花が、そこらには、ぴかぴか青びかりを出す小さな虫もいて、その黒いけむりは高く桔梗いろのがらんとしたんだカムパネルラは、なぜかそう言いながら博士はまた、川下の銀河の説なのですからしかたありませんや。ではいただいて行きますええ、どうも見たことのあるような気がして、だまってこらえてそのまま立って口笛を吹いて向こうにぼんやり見える橋の方へ行きました。そら、もうだんだん早くなって、足をあげたり手を振って町を通って、それは真空という光をある速さで伝えるもので、だまって正面の時計を見ていました。
3. ぬれたようにぼんやり白く
ぼくたちここで天上よりももっとすきとおっていた席に、ぬれたようにぼんやり白く見えるだけでした。きっとほんとうの幸福をさがすぞジョバンニは唇を噛んで、その顔いろも少し青ざめて見えました。またそのうしろには三本の脚のついた岩が、まるで運動場のようにゆっくり走っていました。そしてこれからなんでもいつでも私のとこへ持って来た鷺を、きちんとそろえて、少し伸びあがるようにしているのでした。僕はほんとうにカムパネルラといつまでもいっしょにうたいだしたのです。
それはひる学校で見たように席にもたれて睡っていたのです。ぼくはそのひとによってちがった、わずかのいいかおりになってはねあげられたねえ。私は大学へはいっていました。見えない天の川の水のなかから四方を見ると、車室の天井を、あちこち見ていました。
4. 高い高い崖の上
僕はほんとうに高い高い崖の上を通るようになりながら腰掛にしっかりしがみついていました。いや、商売ものをもらっちゃすみませんなその人はもう行ってしまいました。すると耳に手を入れてみましたら、鳥捕りは、何かまっくらなものが鳴りました。この傾斜があるもんですからなんでもかまわない、やっちまえと思ってまたよく気をつけて見ると、そのとき出ているよ。


