第1話:一枚の名刺と濡れた記憶 契約の前に ――新人OL・美羽、初めての単独訪問


スーツの袖に指先を通すたび、まだ身体に馴染まない布の感触がくすぐるように落ち着かない。

春の空気は温んできたというのに、背中にはうっすらと汗が滲んでいた。

鏡の前でネームバッジを整え、息を吸う。

社会人になって、まだ一ヶ月。名刺交換も、お客様対応も、まだ“ロールプレイ”の域を出ていない。

(大丈夫、大丈夫……笑顔だけは、忘れない)

そう自分に言い聞かせ、ヒールの音を響かせて社用車に乗り込む。

今日の訪問先は、大手建設機器メーカー・高木産業。

営業部の重役・権田昌一――社内でも「やり手で厳しい」と噂される男だった。

(初めての単独訪問が、あの権田さん……)

誰もが緊張する相手。だけど、直属の上司に押しつけられ、気づけば私が一人で行くことになっていた。

エレベーターの中、何度もプレゼン資料に目を通す。

手のひらにはじっとりと汗。膝の上のスーツスカートが少しだけ湿っているような気がした。

ピン、と鳴った音とともに、目的階へ到着。

受付に声をかけると、すぐに案内されたのは、ガラス張りの応接室だった。

広くもなく、狭くもない。だがその空間は、妙に音が響く気がした。

やがて、扉が静かに開いた。

「……高木産業の権田です。よろしく」

背が高く、年配にしては姿勢がよく、声も通る。

目が合った瞬間、こちらを見抜くような視線に背筋が自然と伸びる。

「あっ、はじめまして……御社の担当になりました、白石美羽と申します。本日はお時間をいただき、ありがとうございます」

ぎこちないお辞儀と、ぎこちない笑顔。

けれど彼は、にやりとも笑わず、ゆっくりと椅子に腰を下ろした。

■社交辞令と、濃いまなざし

「で――うちの要望には、応えられるの?」

初手から、ずいぶん直球だった。

「はい……あの、こちらが新たな提案書になります。納期を含め、再調整させていただきましたので……」

手元に資料を差し出すと、彼は黙ってそれをめくっていく。

表情ひとつ変えず、資料に目を落とすその横顔に、妙な緊張が走る。

(この人……呼吸のリズムすら乱される……)

会話の主導権は、ずっと彼の手の中にある気がした。

「ふうん。まあ、悪くない。ただ――あんたが新人でなけりゃ、もっと強く出るんだけどな」

意地悪とも取れる言葉だったけど、なぜかその声音は、意外とやさしかった。

■内ポケットに仕込まれた視線

「……スーツ、よく似合ってるな。最近の新人は、みんな華がある」

ふいにそんなことを言われて、心臓が跳ねた。

「あっ……あ、ありがとうございます」

「名刺交換のとき、ちょっと手が震えてたろ? 初めて一人で回されると、そうなるよな」

(……見られてた)

どこかに逃げたくなるような、でも逃げ場のない視線。

その眼差しが、資料の中身ではなく、私そのものを“試して”いるように感じられた。

■一瞬の接近、それだけで

「じゃあ、この資料は預かって検討する。今日は、ありがとう」

それだけの会話で面談は終了。

だが、荷物をまとめようとした私に、彼はふと近づいた。

「……ああ、名刺をもう一枚、もらえるかな。ちょっと手元に置いておきたい」

「あ……はい。こちらを……」

身を乗り出して渡そうとしたその瞬間。

スーツの胸元が、わずかに開いた。

彼の目が、その視線が――明らかに、そこへ向けられていることを、私は敏感に察知していた。

レースのブラの縁が、少しだけ。

布と肌の隙間が、光の中に浮かんでいた。

「ありがとう。……白石さん、頑張ってるね」

にやりとも、優しくもない。

だが、その一言が、妙に胸の奥で残響した。

■エレベーターの中、疼く感触

会社のビルを出た瞬間、膝の力が抜けた。

エレベーターの中、ひとりで深呼吸を繰り返す。

(なんで……あんな一言で、あんな目線で……)

太ももの内側が、じんわりと熱を帯びていた。

下着が少しだけ肌に張りついて、そこだけ空気の通りが悪くなる。

(おかしい……私、なにか変……?)

■夜、自宅の鏡の前で

ワンルームの部屋に戻り、シャワーを浴びてスーツを脱ぐ。

鏡の前で肌を拭きながら、改めて胸元のラインを見る。

(……あのとき、見えてた……よね)

それを思い出しただけで、乳首がピンと張ってくる。

指先でそっとなぞると、敏感な感覚が戻ってきて――自然と、脚が揃えられる。

(こんなこと、されたわけでもないのに……)

でも、あの視線がまだ身体に残っているような感触。

見られただけで、知られてしまった気がした。

■“次”への予感

その夜、美羽はなかなか寝つけなかった。

胸の奥に残る、乾かないような感覚。

契約は、まだ成立していない。

でも、それより先に、身体の奥に“火種”がともってしまっていた。

(また……会うことになるのかな)

まだ何も始まっていないはずなのに、

彼の言葉と視線が、確かに身体のどこかを変えてしまった。

──それが、すべての始まりだった。